これまでのもの

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■■2007年1月30日■■2007年5月15日■■
■■2007年5月15日■■

東京大学の中原氏のブログに,東京の中学校で早稲田アカデミーの講師陣が教員研修を実施した様子が書かれている。そこで紹介されている校長の言葉が印象的だ。

「以前は、塾が校内研を担当することに抵抗があったようです。でも、今はありません。私も、もちろんありません。それよりも、できることはなんだってするし、利用できるものは何でも利用します。学校を変えなければならない。時間はあまりないのです」

しかし,問題は変える方向だ。学校を変えなければ…という思いは,少し前にも広がったように思う。ちょうど,「変わらなきゃ」というフレーズが巷間にあふれていた頃,もっと知を総合的にとらえ,深く考える経験をさせたいと思って学校を改革しようとした時期だった。それが,どうだろう。全く逆(に見える)方向に変えようとしていないか。外圧はPISAだ。

学力問題も,それ以前の生活の問題も,日本だけの問題ではない。多くの近代化された先進国が共通に抱える問題だ。もちろん相関はあるだろう。でもそれは相関であって,因果関係ではない。同じ時期に同じグループに起こった出来事には相関は出る。でも,もしかすると共通の原因が他にあるかもしれない。この件については,おそらくそうだろう。それは,社会環境の変化である。商業主義,個人主義,表現の自由など,近代社会が大事にしてきたものが,社会を変え,子どもに対する期待を変え,子どもが育つ環境を大きく変えている。もちろん,それを戻すことは意味はないし,不可能だ。

みんなが一つのものさしに向かって競争する構図をどう考えるか。これを,ハーバードの教育学者デビッド・パーキンスはセオリー1と呼んだ。知識を蓄積させ,スキルを獲得させることが学校の任務だという説だ。もちろん,批判的にだが…。そして,そういった学校に対して,スマートスクール(いけてる学校)を提案する(Perkins, D. "Smart Schools" 1992) 。さまざまな問題に自分たちで(協力して)取り組み,深く考えながら解決することを重視する学校だ。そういう学校では,多様な価値観が尊重され,いろいろな能力が称賛される。本来,実社会ではそうではないのか?PISAで良い点数をとるためには,そういう力が必要なのではないか?

同じものさしで競争すると,どんなに頑張っても上位数%しか満足できない。残りは,無意味に叱咤激励される。激励されているうちはいいが,それが叱責に変わったり,無視され始めると人間としてスポイルされることになる。こうして,学びから逃げていく子どもが量産される。今や,それがかっこよく見えたりしているのではないかと思われる。大事なことは,見せかけの目標をもつことではないはずだ。学校がそれを忘れて,塾がその秘訣を知っているなら,塾の研修も大歓迎だ。


■■2007年1月30日■■

1月24日,ついに学校教育法,地上教育行政法,教員免許法の改正を含む「教育再生会議」の第一次報告が提出された。報告は,(1)「ゆとり教育」の見直し,(2)罰による規律の再生,(3)社会的規範の注入,(4)社会人登用と処遇格差による教員の質の向上,(5)外部評価と学校管理体制の強化による信頼回復,(6)教育委員会の改革,(7)社会の教育力の向上,というような7つの項目よりなる。これに対して,委員の一部や首相は100点満点だというのだが…。

これに先立つ「案」の段階で,朝日の社説(1月20日)は,再生会議の報告案のほとんどが,中教審答申や教育改革国民会議の提案との焼き直しだと指摘し,実際の会議ではかなり踏み込んだ意見もあったのに,それが報告案では黙殺されているという。黙殺を防ぐために,議事録を公開せよという主張である。タイトルの「報告書は期待はずれだ」の意味が,内容の陳腐さに向けられているわけだ。提案それぞれについての吟味はない。 一方,同日の毎日の社説は,学力の定義を問題にする。会議は改革でどのような「学力」を保証したいのかを示していないというのである。批判の矛先が向けられた「ゆとり教育」は,それを「自分で課題を見つけ,自ら学び,考え,判断,行動し,よりよく解決する力」(生きる力)と示していた。それを否定するのであれば,それに変わる理念を示すべきだという。それと同時に,朝日と同じく論議を公開すべきだという。ただし,その背景には,この論議が子どものためではなく政治的に進められているのではないかという懐疑がありそうだ。

このような指摘がありながらも,結局論議が公開されることなく報告が提出された。注目すべきは,同時に「教育再生民間会議」も提言を発表していることだ。その主旨は,これからの教育は選別ではなく,適性に応じた多様な能力の伸長におくべきで,そのために子どもが持つ人間力を総合的に高めることを主眼にすべきだというものである。そして,「ゆとり教育」の本旨を知識偏重を改めることだとして,その充実を謳っている。 その他,メディアでもいくつかの反論が出始めた。

これらの反論には,言いたいことがほぼ含まれているし,それを整理していち早くパブリッシュした広田・本間両氏に同じ教育研究者として敬意を表したい。一方,メディアに対しては,教育を科学的に見ること,「ゆとり教育」などの用語について学習することの重要性について認識して欲しいと思う。さらに再生会議に対しては,対症療法的で破壊的な提言よりも,いまあるリソースをどうやって最大限に引き出すのかを論じてほしい。そのためには,教育予算のGDP比率が先進国の中では極めて低いこと,地方交付税交付金として交付された教育予算が全く異なる事業に充てられていることなどを勉強してほしい。


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